昭和42年7月27日 夜の御理解


 私は小さい時から、仏様やら、神様やら拝むことを、いつのまにか教えられ、あてもない信心、拝んでまいりました。少し物心がつくようになりますと、何か自分のことで叶わないことがありますと、すぐ神様の前にでては、お願いをさして頂いたり、御祈念をさせて頂いたりいたしました。けれども願いが成就しとか、願いを聞いて下さったという風に思えることは、まずなかったです。それでもやはり、拝むことを止めませんでしたし、又、拝まなければおれなかったというのが心情かも知れません。
 本当に拝むことによって、おかげが受けられるとか、どうもそういうことが段々信じられなくなってきた時代もございました。それでもやっぱり拝んでまいりました。
 疑問を持ちながらも、やはりあの、神様を拝んで、そして結局はどうでも、ここは助けてもらわなければならんとか、何か切羽詰まって、人間の智恵、力とか、出来ないというときには、やはり神様にお願いをして、お願いしてきたけれども、まあその時には、ならまあてきぱきとしたというか、はっきりしたというか、そういう御利益というようなものには触れることが出来ないのにかかわらずに、やはり信心を続けてきた。
 私どもの心の中に、何かをです、分からんのです。分からんのだけれども、やはりそれを心の中に頂き続けてまいりました。その神様が今日、私がこのようなおかげを頂いとる。そしてここにたくさんの人が、同じく助かっていくというようなおかげを蒙ってまいりました。ですからやはり、あの分かっても、分からんでも、やはり拝み続ける。お参り続ける。なるぼど辛抱し抜かせて頂くというところに、と言うて、私の場合、辛抱し抜かんという厳しい言葉、いうことほどしのこともなかった。もうそうさせられて、させられてきたというような、そうだったんですよね。辛抱せんにゃならんと言うて、辛抱したわけでもないけれども、結局、いうなら自分自身の弱さといいますか、どんなに信心が分かってくればくる程、自分の所謂、無力さかげん、まあいうならば「障子一重がままならぬ人の身」であるというような自覚ではないけれども、とにかく人間の無力さかげんというものが、まあおかげはあってもなくても、縋ってきたというのが、まあ本音であろうとこう思うのです。
 先程、夕食の時でした。今朝から熊本の太田先生達が、ご夫婦で見えておられます。先生、大体、金光教の信心は、天地を神として、対象として拝んでおるその天地が、それもあの、伊万里の今度の水害のことからでした。その天地を対象にして、拝んでおるその天地、所謂、神がどうして人間の上にああいう災難やら、災いや所謂天変地変といったようなことが起こってくるのでしょうか。本当にそう、いや、そうですね。神様ともあろう方が、たくさんの者の命をとったり、家をその押し流したり、確かに天変地変である。ね。そういう目に合いましても、それでもやはり、私どもは縋らなければおられなかったと言うこと。さあどうでしょうね。私も分からん。ね。所謂、無明の心、無明の心に光がない。そこに「天地の心があるならば知りたい。」天地の心があるなら、天地の心が知りたい。どうして、どうしてと、その天地の心。神様の心を分かろうとしていない。自分の心に光がない。心が真っ暗。どうしてこの様な、悲しいことが起こるのであろうか。しかも次から次ぎと、どうしてこんなに痛ましいことが連続的に起こってくるのであろうか。これは教組の神様の場合でも、同じことですある。七墓築かれるようなことが続いた。私どもでも難儀から難儀の上に、不幸が重なり続いた。もうへとへとに打ちのめされるような時であっても、それでも、やはり信心は止めなかった。
 そして日頃、頂いている教えは、これはまだ私どもの、信心が足りんのだと。所謂、本当の信心を求めだしたのも、その頃からであった。現在まことの信心、本当の信心を頂いとるとも言えない、思えないですけれども、そんなら、以来、私の心の中に、その真の信心と、本当の信心を求め続ける。所謂、無明の中に、光を求め続ける心は、一つも変わりはない。何十年間、同じことを繰り返しておるようであったけれども、しかしいつのまにか何とはなしに、おかげを受けてきた事は事実である。分からないというようなことでも、もう昔、分からなかった言うようなことは分かる。
 その後においての分からないという問題はたくさんあるけれども、おそらくは、私ども一生これを繰り返すのじゃなかろうかとこう思う。そして私どものようなおかげを、おかげと感じきらずに、ね。お願いしたけれども、お願い通りにならなかったというような中にあっても、信心が続けられていくうちに、何とはなしにおかげを頂いてきた。何とはなしに、自分の心の中に、信心が成長してきた。 そして何十年経ってから振り返ってみて、信心を続けてきた者は、信心を怠った者、信心を全然しなかった者との開きというものを感じるのでございます。ね。ここんところは、私どもは分からんのです。金光教の信心は、天地を対象として拝まして、拝まして頂いとる。天地を神様と言うておるじゃないか。
 その神様が可愛い氏子とまで言うて下さるその人間氏子を、あっという間に命を、しかも一度に奪うような、天地地変といったようなことが何故あるのか。世の中にはどうしてこの様な苦しみ難儀なことが満ち溢れておるのか。この様な難儀な病気がどうしてあるのか。それこそ極楽のような世界がどうして、神様の世界があるというのに、開けてこないのか。もう言えば言うほど、思えば思うほど、分からないことばっかりなのです。ね。けれどもやはり、私どもがいよいよ障子一重がままならぬ人の身であるという、いわば天地に、この身を心を委ねなければ仕方ないという心。ね。それでも縋らなければおられないという心。そして何十年間、縋り抜かして頂いた者、縋ることを知らなかった者、そこに内容的に開きがでけておる事実を見るときに、あれもおかげであった、これもおかげであったということを、思わんわけにはいかんのでございます。
 願ったけれども、おかげは受けられなかったけれども、その受けられなかったことも、おかげであるという事が言わんわけば、おられないのです。これは私の短い五十幾年間の生涯を振り返ってみても、そう言はなければおれんのである。ね。理屈はない。なぜ天地の親神様ともあろう方が、どうして天変地変といったような事があって、ね、人間がその災害から免れることが出来ないということはどうしたことだろうか。分からない。分からないけれども、しかし縋らなければおられないという、これが信心なんだ、ね。そして何十年間経ってみて分からして納得が得られることなんです。縋ってきた者、縋ることを知らなかった者、縋りおえをやめた者、もう神も仏もあるもんか、信心は止めた者。ね。分からんのだけれども、只その神様を拝み抜かせて頂き、信ずることもようしなかったけれども、只神様を頂き続きに、願い続きに、縋り続きに、そして大難は小難、小難は無難にと、例えば願わして頂いてお願いを頂いてきてから、何十年間を振り返ってみてから、まああん時は難儀と思うておったあの事も、おかげであったと分からして頂く時に、して見ると、あれもおかげ、これもおかげということが分かるというと、これ一切が神愛なりということになってくるのじゃないでしょうか。
 天地の親神様の切なる願いというものの中には、ね、痛い思いもある苦しい思いもさせる。悲しい思いもさせるけども、それとても神愛の現れであるということ。大雑把に言うて、そう信ずる他には道はない。
教祖様の神様とても、やはりそこんところをです「天地のことは、人の心もて、知りて知り難きものぞ」と仰った。しかも「恐るべし恐るべし」と結んでおられます。ね。
 天地の一つの勢いというか、天地の働きというものは、ね。有難いということと同時に恐るべし、恐るべしなんです。その神様に私どもが、なら実意をたて抜きね。真の追求させて頂ながらです、いよいよ神様にお縋りさせて頂いていくところからです私は、なんとはなしに、もうおぼろげんでも、一切がおかげである。あれもおかげである。これもおかげであるという様なことがはっきりした言葉、はっきりした文章では表されなくても、私は学者ではないから、まあ分からんのかも知れません。太田先生なんかは、まあ言うなら最高の学問を修めておられるから、そういうふうに言われるのでございましょう。質問を受けて、私とても困った。そのそれに確答をお与えすることは出来ません。
 ね。けれども何とはなしに、縋り抜かせて頂いた者の上には、何とはなしに、心の上にも形の上にも、おかげが一つ一つ成就していって、おかげを受けておるという。これからとても、おかげが受けていけれるまあ、ほのぼのとした希望が持てるということ。この世だけではない。このままおかげを頂いていけば、あの世をこの世を通しておかげが受けられるぞといったようなものすら、心の中に感じられるね。そこを詮索するということはです、なかなか天地のことは、人の目をもて見ることも出来ない。知ることも出来ない。恐るべし、恐るべしである。
 難儀な時、悲しい時、そこに自分の心は真暗であっても、無明の、中に明かりのない無明の中にあっても、無明の中に天地の心があるならば、吾にそれを示せ。それを教えてほしいという求道心を持ってです、ね。私はお縋りしていく以外には、私どもとしては手がないのではなかろうか。なぜって、障子一重がままならぬ私どもなんだものだもの、ね。無力である私どもだなんだもの。確かに天地を生き通し、天地の中にはなんとはなしに、そうした働きを感ずるなら、その働きに対して、その働きの中に、私どもおかげを蒙っていくより他に手がないというのが、実際は無力な、人間の姿ではなかろうか。
 一つもはっきりしない。漠然と漠然としておる。お願いを一生懸命にしておる。一生懸命お願いして、おかげを頂ききらじゃったと言わずにそれでも、やはり無力な吾であるということです。それでもやはり、あの縋っていくということ。願っていくということ。信心を続けていくということ。それが有難いことではなかろうか。そして自ずと分からして頂くことは、あれもおかげであった。これもおかげであったと分からしてもらる、そしてあれも神愛の現れであったということが分かってくる時にです、私どもの本当の幸せの道が、そこから開けてくるように思う。      どうぞ。